> サロン(名誉顧問コラム集)

【訃  報】
 
当社名誉顧問 今村 雄二郎 氏は平成29年9月4日にご逝去されました(享年88歳)。
構造解析及び設計ソフト:GENOA、Hypersizerの導入・展開や技術者指導等、
当社先進ソリューションの推進・拡大に多大なる功績を残されました。
社員一同、ここに生前のご指導を深く感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします。

今村 雄二郎

名誉顧問

 Yujiro Imamura      
「私の風土記」(コラム集)


《経 歴》
・慶応義塾大学工学部電気工学科卒業
・フルブライト留学生として、米国ケンタッキー大学留学
・日商岩井(株)宇宙航空機部、電子機器部に勤務
・航空自衛隊主力戦闘機(F4,F15)、搭載電子機器、
 ミサイル等の導入、および生産ライセンス契約の締結
・(株)CSK 取締役 海外事業部長として、
 米国子会社を設立、人工知能技術を導入
・(株)ヒューマンシステムを設立、
 第5世代コンピュータの開発に参加
・(株)アイヴィスにおいて、GENOA、HyperSizer等の
 構造解析・設計ソフトを導入

 ・以後、当社名誉顧問としてJAXA向け航空宇宙ソリューション展開、技術者指導に尽力
 

 

今村 雄二郎

名誉顧問

 Yuriro Imamura   
私の風土記(コラム集)


《経 歴》
◎慶応義塾大学工学部電気工学科卒業
◎フルブライト留学生として、
 米国ケンタッキー大学留学
◎日商岩井(株)宇宙航空機部、
 電子機器部に勤務
◎航空自衛隊主力戦闘機(F4,F15)
 搭載電子機器、ミサイル等の導入、
 および生産ライセンス契約の締結
◎(株)CSK 取締役 海外事業部長として
 米国子会社を設立、人工知能技術を導入
◎(株)ヒューマンシステムを設立、
 第5世代コンピュータの開発に参加
◎(株)アイヴィスにおいて、
 GENOA、HyperSizer等の
 構造解析・設計ソフトを導入

◎以後、当社名誉顧問として
 JAXA向け航空宇宙ソリューション展開、
 技術者指導に尽力 

【訃  報】 平成29年9月5日
 
当社名誉顧問 今村雄二郎 氏は
平成29年9月4日にご逝去されました(享年88歳)。
構造解析及び設計ソフト:GENOA、Hypersizerの
導入・展開や技術者指導等、
当社先進ソリューションの推進・拡大に
多大なる功績を残されました
ここに生前のご指導を深く感謝し、
謹んでご冥福をお祈りいたします。
名誉顧問 今村によるコラム集【再掲載】
- 私の風土記 -
名誉顧問 今村によるコラム集
≪再 掲 載≫
タイトルをクリックいただくとコンテンツをご覧いただけます
(または、全章をPDFファイルにてご覧いただけます)
第一章 「学生時代」

昭和23年(1948年)頃、旧制の専門学校(現武蔵工大)の電気工学科に籍をおいていた。その頃の学校は、半分ぐらいが復員した元軍人や軍の学校から入学した学生で、陸軍や海軍の軍服を着ており、学生服など着ている者は少なかった。私自身も軍とは無関係であったが、やはり海軍の作業服のような物を着ていた。

 仲の良かった小坂三郎は、私より3歳年上の予科練出の元上飛曹で、ゼロ戦のパイロットであった。が、運良く特攻隊編入は免れたとのことだった。彼はなかなかのダンディールックで、海軍の戦闘服に半長靴をはいており、大いにモテていた。
 
 終戦までの1年半、私は勤労動員で通った工場で通信機の生産を手伝っていた。自然と電子、電気の方面に興味をもつようになって、学校を卒業した。
 
 卒業後すぐには就職もせず、ふらふらしていた。兄が東大のボート部に入部していたのに影響され、東大理科1類を受けたが落ちてしまった。
 
 慶応の工学部に入り、かくなる上はと、すぐにボート部に入部した。当時、慶応のボート部は、東大・早稲田・一ツ橋と並んでビッグ4といわれていて、入部直後、全日本インカレのエイトで優勝した。もちろん、当時私は新人で、対抗クルーには乗れなかった。
 
 優勝クルーからコックス(舵取り)と漕手4名が選ばれて、ヘルシンキのオリンピック選手候補になったが、その穴埋めで、私は2年の初めから対抗エイトのメンバーに選ばれることになった。
 
 春は墨田川の早慶戦6000メートルを三年間漕いだ。当時の隅田川には護岸工事やコンクリートの堤防などはなく、柳橋の料亭等、宴台が川に張り出しており、芸者達が総出で応援してくれたものである。
 
 夏は戸田橋のボートコースで全日本選手権があり、おおよそ一年のうち四ヶ月は合宿していた。 当然学業に影響してしまったが、同級生の内山や相磯(後の理工学部教授で、加藤寛さんとともに、藤沢の大学院を作り、現在は東京工科大学学長)からよくノートを借りたり、代返とかで、何とか期末試験をしのぐことができたのである。
 
 3年の夏休みは少し心を入れ替え、全日本インカレへの参加をあきらめ、主任教授のお世話で、日本電気、多摩川事業所で実習を始めた。実習の内容は、米海軍から貸与されたフリーゲート艦に搭載された、電波傍受用の自動チューニング受信機の調査である。なかなか興味あるテーマを提供され、だんだんと調査研究に熱が入ってくるのもつかの間、ボート部の高橋監督(通称六さん、昭和7年ロサンゼルスオリンピックのボート代表メンバーで、当時は大日本精糖の部長で藤山愛一郎の秘書)から突然呼び出しがかかり、直ちに合宿に戻れということになった。せっかく始めた実修の中断について、工学部の先生や日本電気の実修担当の上司には何ともマズイ結末で、平謝りではすまされぬ破目に陥った。
 
 そんな状況で、全日本インカレの決勝に残れなかった、にも拘らず翌年は最上級生になるということで、一度は辞退した主将を引き受ける事になった。
 
 4年の夏にはボートレース発祥の地の大学と言われた、英国ケンブリッジ大学のエイトクルーが日本に遠征してきた。幸いにして、私は現役最後のレース朝日レガッタ(決勝4ハイレース)で、このケンブリッジ大・東大・早稲田を抑えて優勝する事ができた。
 
 私の人生では色々な紆余曲折を味わってきたが、最初の就職面接もそうであった。私は電力会社に入りたいと言っていたのを、一年後輩の宮川が彼の父(間組役員で、只見川の電源開発等で、東北電力と付き合いがあった)に話した結果、ケンブリッジ大のOBであり、当時東北電力の会長をしていた白洲次郎のところに連れて行くという事になった。ところがである、私は不覚にも待ち合わせ場所を間違え、その面接に30分の遅刻をしてしまったのである。理由の如何にかかわらず、有名な直情ワンマンの白州次郎に対しては、当然のことだが、これは面接落第の十分な条件であった。 

第二章 「社会人一年生」

 昭和29年(1954年)後半には、造船疑獄と呼ばれる一大激震が政界をゆさぶり、深刻な不況が発生し、大手は軒並み新卒採用を中止してしまった。
 
 そんな中で、私は古川系の中堅企業、古川電池に就職した。技術部の技術課に配属され、鉛蓄電池の設計を勉強した。自動車用が主力であったが、米海軍から海上自衛隊に供与された、潜水艦『くろしお』の蓄電池換装という要求があり、潜水艦用の蓄電池を試作せよとの命が出て、設計担当者として色々苦労することとなった。
 
 当時通常の自動車用では、電池の容量は高々120アンペア・アワー位であった。ところが潜水艦用となると、5000アンペア・アワー以上のものを作らねばならず、しかも試作費と期間が極めて限定されている。先輩の指導と、私のない知恵を絞った結果、自動車用の基板を縦・横に多数結合して、大型基板を即製した。
 
 営業部門は我々の試作実験データによって、日本電池、ユアサ電池と競合して入札に参加したのだが、結果は日本電池の落札に終わった。
 
 この頃私は、生意気にも蓄電池の設計分野における、電気化学技術の進歩にやや失望していたのと、大学時代の勉強不足への反省とが心の中で交錯していた。 そこで新たに勉強するなら米国へ行きたいと考えるようになった。昭和30年(1955年)当時は未だ敗戦国の日本人は、米国で自由にお金を使う事もできなかったし、又私自身もそのような経済的な余裕は一切なかつった。 米国大使館の合衆国教育委員会というところで調べた結果、フルブライト渡航費貸与制度というのがあり、これはフルブライト全留学経費支給制度と異なって、それほど激甚な競争率ではないこともわかってきた。ただし既に米国の大学より助手か講師などで、給料支給の保証がないと受験資格がないので、出願者の数も限られていた。
 
 もともと英語が好きだったので、会社の勤務後の時間や土日を利用して英語の勉強に励んだ結果、米国ケンタッキー大学工学部電気工学科より助手としての採用許可を得ることができた。その上、運良く米国大使館の昭和31年(1956年)度の渡航費貸与学生として合格した。
 
 後に判ったことだが、同期生の中には大日本インキ化学の川村茂邦が含まれていた。川村はその後大日本インキ化学を一大総合化学企業に育てた人である。川村とはその後40年以上経ってから一緒に仕事をする機会を得たが、すでに6年前に鬼籍の人となってしまった。

第三章 「米国留学」

 ケンタッキー大学は米国中西部(決して西部ではないのだが、開拓時代の米国ではアレガニー山脈より西は全て西部と呼んでいた)ケンタッキ−州、レキシントン市にある州立大学である。
 
 当時朝鮮戦争に18ヶ月従軍すると授業料が免除されるという制度があり、州立大学はどこも復員軍人で学生数が増加していた。
 
 ケンタッキー大は7000人の学生がいたが、日本人は私一人だった。
(後に後輩が一人と科技庁から一人派遣されて来て3人になった)
周辺は未だ農場や牧場といった田舎であったが、その後IBMのタイプライター製造部門、1980年代にはトヨタの乗用車工場(ジョージタウン工場)が出来て、徐々に工業化が進んだ。
 
 大学では主に自動制御、原子力工学などを学んだが、英語の習得のために、すでに日本の大学で習得済みの電気機械工学なども履修した。又電子工学実習では、アメリカの学生の電子回路・部品に対する基礎知識の高さを、大いに認識させられた。
 
 毎日午後は担任助教授の助手として研究実験を手伝った。主に種々の半導体の誘電体損失の研究であった。
 
 最初の半年は、車も持てず、日常にやや不便を感じていたのだが、その頃大学の掲示板で、住み込み食事付きアルバイトを発見した。電子工学の学生で、夜間常勤の技術者がいないときに、病院の急患に対して使用される医用電子機器の調整メンテを担当するというもので、病院は部屋と食事を無償で提供するというものであったから、応募して採用された。
 
 これも大学とはまた別の米国での専門病院(小児麻痺)の内部を知る良い経験になった。又その後の実習では、新設される医学部付属病院の、電気/電子設備設計の仕事も経験することになった。
 
 フルブライトの方は1年が期限であったが、若干延長して実習などを経験して、昭和33年(1958年)に帰国した。

第四章 「日商岩井時代」

 製造業か商社かと迷ったが、これからの日本には、技術導入や貿易による経済発展の必要性を強く感じ、若干の縁故のある当時の日商(現在の双日)に入社した。
 
 原子力技術の導入の仕事を希望して、東京本社の原子力部に採用される予定になったのだが、出社してみると航空機部の部長が現れ、ぜひ航空機販売の仕事をやってほしいとの要請があり、ここで航空機部所属に変わることになった。
 
 仕事は民間航空と防衛関係に分かれていて、私は防衛関係の担当になった。民間航空部門では、ボーイング社の代理店として旅客機(当時は707型)の販売に腐心していたが、日本の都市を破壊し原爆を投下したB29のメーカーとしてきわめて印象が悪く、代理店締結後、昭和40年(1965年)まで10年の間1機も売れなかった。
 
 日商の防衛部門では、航空自衛隊の次期主力戦闘機用として、米ノースロップ社のN156戦闘機を売り込もうとしていた。伊藤忠はグラマン社、丸紅はロッキード社を担いで、結局ロッキード社のF-104が選定された。
 
 我々は航空機部に所属していたのだが、なかなか空を飛ぶ本体が売れずに、地上支援機材や試験設備の仕事で露命をつないでいた。その中の一つのプロジェクトとして、航空技術研究所(現JAXA)が風洞を建設する事になった際、ボーイング社の技術を導入することになり、この建設を川崎重工が請け負ったが、日商が風洞の計算/制御用に米バロース社の汎用コンピュータの導入契約をした。
 
 これが、恐らく日本における汎用エンジニアリングコンピュータの輸入としては、最も初期ではなかったかといわれている。
 
 昭和30年代の後半になると、航空自衛隊にF-104J戦闘機が三菱重工のライセンス生産によって納入され、毎年機数も増加していった。この戦闘機はノーズが細く、翼も小さく非常に恰好が良いのだが、ノーズに収まるレーダアンテナの径が小さく、索敵レンジは短い。またエンジンが単発という点で、エンジントラブルで一度フレームアウト(停止)すると生存機投率が低い。これらの欠陥が、我々が次の世代の戦闘機を選定して、販売する大きなヒントになった。
 
 昭和38年(1963年)頃、在日米軍(厚木駐留の艦載機)と航空自衛隊との合同索敵演習というのがあり、F-104J(約24機)と米空母から厚木基地経由で参加したマクドネルF4Bによって実施された。 両国の戦闘機が競争して、不明目標機を索敵するというものだが、結果はわずか3機の米海軍F4Bが全ての不明目標機をエンゲージし、 F104Jはまったく出る幕がなかったという。
 
 マクドネルという航空機メーカーは、日本では知名度がなかったのだが、我が社は直ちに代理店契約を締結して、 F4戦闘機を航空自衛隊の次期戦闘機として売り込みを始めた。
 
 この機体は大きなノーズに強力なレーダを搭載しているとともに,双発で翼面加重も比較的小さく、片発停止しても安全に帰投できるというものだった。
 
 結果、昭和41年(1966年)頃防衛庁に採用された。この年、私は日商のロサンゼルス事務所に転任になった。
 
 日本では主力兵器は丸ごと輸入せずに必ずライセンス生産になる。そのために機体の代理店であっても、搭載機器/部品は全て個々のメーカー同士の取引となる。そこで私の次の仕事は、先ず主要搭載機器及び部品メーカーの代理店を押さえることであった。ウエスティングハウス社(レーダ)、レーセオン社(空対空ミサイル、スパロウー)、リットン社(慣性航法装置)、その他約10社ほどの部品メーカの代理店を取得して、更に各々に相対する日本のメーカー各社に製造技術ライセンス提携させるため、日本の本社を支援した。
 
 昭和44年(1969年)末に私は東京本社に戻ったが、この時までに日商は岩井商店を合併して、日商岩井になっていた。本社では航空機部官需第二課長として、搭載電子機器分野を担当した。
 
 三菱電機/レーダ、東芝−日本航空電子/慣性航法装置、日立/電波高度計、NEC−島津製作所/ヘッドアップデイスプレー、三菱プレシジョン/戦闘機シミュレータ等の製造技術ライセンス提携を結び、必要な部品の輸入をおこなった。
 
 翌昭和45年(1970年)には大阪万博が開催され、日本の復興も眼に見えて活発化してきた。昭和46年、私は官需第一課長を兼任して、機体の担当も兼ねた。小牧の三菱重工、航空機製作所には、既に20家族以上のマクドネル社の技術者が常駐して(当時マクドネル村といっていた)F4EJ戦闘機の生産を指導していた。
 
 東京からでは十分な支援は出来ないので、日商岩井は名古屋支社の担当を増員したし、そこにはマクダネル社の F4EJ日本プログラムディレクターのアーニー・ザイザーが常駐して指揮をとっていた。一方私が引き継ぐまでに、 F4E戦闘機の偵察機型、RF4E、16機の輸入契約が行われていた。輸入価格は1機17億円ぐらいで、戦闘機型より複雑なのに戦闘機のライセンス生産引渡し価格(当時50億円弱)の1/3位であった。

第五章 「私の上司達」

 入社のときに私を航空機販売に引き込んだ部長は、絵野沢静一という人である。彼の前歴は、旧陸軍の航空本部、技術部長で陸軍中将であったから、当時はまだ航空自衛隊の幹部が部下として残っていた。又課長の前田晋は昭和20年の東大第二工学部出身で、航空技術研究所などには同窓も多かった。そんな環境で我々を指導してくれたのだが、ボーイングの旅客機もノースロップの戦闘機もなかなか売れなかった。
 
 昭和30年代後半になってこの劣勢を挽回すべく、当時日本の造船の約40%を輸出していた、船舶部門の海部八郎が航空機部門をも兼任することになった。
 
 海部八郎が総指揮を取り始めると、政界、 関連企業トップに対しての直接の戦略的接渉、取引が機能し始めた。結果として日本航空や全日空へのボーイング旅客機採用の門戸が開かれ、また航空自衛隊への戦闘機も2世代にわたって(F4の次にF15の採用)マクドネルが採用され、日本の空を飛ぶ航空機は半分以上日商岩井が関係するという時代がスタートした。
 
 だが良い事だけが続かないのは世の常である。海部八郎(当時副社長)及び島田三敬(当時取締役)は、自民党の代議士とも足しげく付き合うようになってきた。その中には松野頼三、岸信介や安倍慎太郎の秘書たちが記憶に残っている。特に松野頼三経由の5億円の政治献金は、後に大きく我々の足を引っ張ることとなったのである。

第六章 「グラマン・ダグラス事件」

 これより数年前のロッキード事件はあまりにも有名なので、ここに繰り返すこともないであろう。ただしグラマン・ダグラス事件も、ロッキード事件の影響でおきてきたということが言えそうだ。
 
 なぜグラマンかというと、住友商事が代理店を持っていたグラマンの早期警戒機を松野頼三が斡旋して、代理権を日商岩井に変更したのではとの疑いが持たれたからである。
 
 日商岩井のなかで松野頼三と交流のある役員は島田三敬であった。昭和54年(1979年)1月島田は検察庁の宗像紀夫検事より頻繁に事情聴取を受けていた。5億円の献金やグラマンの代理店変更問題が主なるものであったと思うが、同時に米国のローカルエアラインとのリース契約を経由しての、口銭の受け取り方の疑問などで、かなり強く問い詰められていたものと思う。同年1月30日の夜9時ごろ私は島田に呼ばれ、20分位話したと記憶している。
 
 翌31日朝7時のニュースで赤坂の日交赤坂ビルより飛び降り自殺があったと報じていたので、急いで出社したが、既に後の祭りであった。宗像検事は自分が担当していた容疑者が突然いなくなってしまったため、次の相手を探しはじめた。島田は当時常務であったが、その次に上位の責任者は、軍用機担当としては次長である私ということになり、その間の命令系統には他に誰もいなかったのである。そこで運悪く検察庁より、私に任意出頭の連絡が来た。
 
 私はグラマン代理店を日商岩井が取得した頃は日本にはいなかったし、松野頼三と面談した事もなかった。大体課長か課長代理といった職位では、 政治献金などという行為にはぜんぜん縁がなかった。それでも宗像検事は何とも強引に私の容疑理由を編みだし、別件的逮捕状をとった。
 
 3週間ほど東京拘置所に拘留されたが、あまり罪状がないので、業務暦を書いたり、検事とはヘルマン・ヘッセなどの文学談義をしていた記憶がある。釈放される前に、宗像検事は「私は国家権力を背負って、君を苦しめてすまなかった。君はそのような事(政治献金や政界工作)に関与する立場にはなかった」と謝ったが、その後の裁判ではしたたかにも、有罪判決を勝ち取った。
 
 私の担当弁護士の小沢優一は、私の場合は起訴猶予になるといっていたが、実際には私文書偽造同行使で有罪の判決が下された。その私文書も私の意志で部下が作ったものではなく、前任者と経理部長の指示によるもので、何処の商社でも日常茶飯に行っている類の書類である。
 
 私は個人的には非常に不満であったが、小さな罪で早く裁判を終了したいという会社の方針の犠牲になって、2人の上司(副社長の海部八郎と部長の山岡昭一)とともに控訴もしないで、執行猶予付き6ヶ月の有罪判決を黙認して受けた。何しろ顧問弁護団というのが、元検事総長、最高裁判事や日弁連会長と言った大物で、自民党との贈収賄を検証させない事が一大目的で、私などの弁護は殆ど問題にされなかったのである。贈収賄を立件させないと言う条件で、担当者レベルの小さな起訴内容(外為法違反、私文書偽造等)はおおむね検事調書の通りの内容を一方的にみとめるといった話し合いが、検事側と弁護団側との間に介在していたのではと、私は今でも思っている。昭和55年(1980年)当時の夏の朝日ジャーナル誌上で、立花隆はさすがに、私の判決について「少し気の毒な判決」とやや同情気味の記事を書いていた。

第七章 「新しい部の設立」

 私は裁判が結審してからしばらくのあいだ、販売活動を差し控えていた。しかし生来の商売気質が徐々に頭をもたげてきていた。日商岩井では電子機器やコンピータ関連製品の販売は複数の部門に存在していて、一括集中的に扱う部門がなかった。
 
 電子機器の使用目的はさまざまでも、機能、性能、保守等に関しては、かなり共通性がある。またこの種の製品の市場もますます拡大していた。そこで私は社長に直訴して、電子機器部(次に電子機器本部)の設立を提案した。
 
 昭和56年(1981年)4月には電子機器部が、産業電子機器、民生電子機器、医用電子機器、防衛電子機器の4課編成、部員約50名で発足した。
 
 更に各課に付帯する子会社が3社あり、私はそのうちの1社、日商セミコンダクタの社長を兼任した。また他の1社、日商エレクトロニクスはすでに300人以上の社員がいて、後に東証2部への上場を果たした。医用電子機器については、米国留学中から関心があって、当時未だ日本にはないMRIの導入を計画していだが、私の在任中には実現しなかった。

第八章 「CSK社長 大川功」

 漸く新設の電子機器部が軌道に乗ろうとしていた頃、再び私の身上に新たな問題が持ち上がった。亡くなった島田常務と付き合いのあった証券会社の役員を介して、 CSK(当時コンピュータサービス)の創立者である大川功社長から、私に突然CSKに移籍の申し出があった。
 
 同社の業績も飛躍的に拡大していて魅力を感じていたが、私1人で移籍してもたいした業績は上げられないと考えていた。そこで私および部下を含めて合計5人ぐらいのチームで移籍する提案をして、先ず私自身が昭和57年(1982年)1月に CSKに入社した。続いて、大学の後輩であり、課長をしていた笠原明道が2ヶ月位遅れて入社した。この頃入社して未だ2、3ヶ月しか経っていない状況で、すでに大川社長の事業運営の手法に大きな疑問を感じていた。そこで3人目に予定していた部下の移籍を中止する事になった。
 
 その後CSKは東証2部上場をはたし、私は海外事業担当役員として3年ほど在籍した。その間に、CSKの海外子会社の設立、人工知能技術の導入などに努めた。
 
 思い出に残ったのは、EDSとのつきあいである。 EDSは創設者のロスペロが会長をしていて、ソフト ウエアをパッケージ化して、銀行や病院の業務処理事業を次々に拡大していった。
 
 米国の銀行は法律で州外に出られないから、小さな銀行が非常に多かったが、EDSはそれらの銀行のコンピュータ部門を社員丸ごと買収、合併していった。その際必ず各銀行の処理経費よりは安く引き受け、移籍した技術者や社員の給与待遇も銀行より良い条件で実施するというものであった。
 
 私は買収担当のディレクターと付き合っていたが、遂には CSKをも買収の対象として動き始めたが、これは完全にブロックされた。
 
 結局私は3年半後にCSKをやめたが、その間CSKに移籍してきたIBMや旧ユニバック出身の多くの幹部と知り合いになった。やはり彼等も短期間で辞任し5年以上在籍した人は非常に稀であった。しかしCSKを辞任した旧役員、幹部が時々集まって、情報交換する会が自然発生的にできて、これが5年位は続いたと記憶している。
 
 大川社長はその後、セガエンタープライズ(当時中山社長)を買収して、ホンダの副社長入交昭一郎を社長にすえたが、やはり短期間でやめてしまった。大川社長も年と健康には勝てず、 CSKにはだんだんと野村證券系の幹部が増えて、現在は完全に野村グループになっている。

第九章 「ベンチャービジネス」

 私はCSKをやめると、人工知能技術を事業化する目的で昭和60年(1985年)に小さなベンチャー企業ヒューマンシステムを設立した。この頃、同じ目的でCSKに採用された技術者たちが、一向に事業が進まないことで非常に不満を持っていたので、上司(CSK総研所長)にはある程度了解を得て、CSK総合研究所から5、6名のAI技術者を採用した。初期はLISP、Prolog等の人工知能言語研究から、徐々にエキスパートシステムの開発を手がけ、電力中央研究所、電力会社等と契約していった。
 
 一番大きな仕事は、旧電総研傘下(ICOT)の第5世代コンピュータ開発であった。これには5大コンピュータメーカーが参加しており、小さなベンチャー企業であるヒューマンシステムは、日立中研の下請けとして人工知能言語の開発を担当した。各社とも半ばオリンピック精神的な参加態度をとっていたようで、自社独自の技術はなかなか披瀝しなかったようである。約5年間で、500億円の予算を費やしたのだが、その成果は非常に疑問であり、現在残っているものがあまりないように思うのは私だけであろうか。
 
 やはり一時CSKに籍を置いていた窪田やすしは、その後理化学研究所のライフサイエンスセンターを 支援して遺伝子やたんぱく質の分子構造の解明研究をしていた。窪田はこの研究開発を事業化したいとの意思が強く、私は平成5年(1993年)にバイオベンチャー企業ATIの設立に協力した。
 
 その後理研はこの仕事を中止したが、窪田は現在も理研から移籍した九州工大の皿井教授とともに、たんぱく質分子構造データベースの構築を続けている。現在すでに2万数千種類以上の分子構造データが登録されており、毎日世界中から数百件の検索が入っているとのことである。
 
 平成10年(1998年)頃にはヒューマンシステムの仕事が先細り、中断凍結する事となった。その後フルブライト同期生の川村茂邦が、あることが原因で大日本インキ化学を辞任することになり、インターネット企業を設立したが、私もこのプロジェクトに2年ほど参加した。内容は、米国のバイアソフト社からRochadeというデータウエアハウス/エンタープライズアーキテクチャ技術を導入することであった。RDBと階層構造を重視した、このオブジェクト指向型システムは、現在のエンタープライズシステムの一つの原型のようにも思われ、その後このRochadeは大手のASGに買収され、益々発展している。

第十章 「GENOAとの出会い」

 私のCSK時代に、米国はニューヨークの対岸のニュージャージー州に、 CSKインターナショナルなる会社を設立したが、その際、藤田実をV.P.に任命して日本から輸入したプリンターの販売事業をやったことがあり、それ以降私と藤田は CSKを辞めても、10年以上も付き合っていた。
 
 彼はその後もニューヨークに滞在し、バーチャルトランジション(VTI)というベンチャー企業を設立して、日本にはないユニークなソフトウェアをNTT関連企業などに導入していた。
 
 また、NASAで開発された種々の技術を民間需要に移転する制度があり、その中の構造解析・新材料開発を支援するソフトウェアをカリフォルニアのアルファスター社(ASC)が汎用化してGENOAと言う商標でボーイングや他の航空宇宙メーカーに導入していた。この輸出許可をVTIが支援して米国政府から取得し、対日売り込みを計画していた。
 
 VTIの藤田は、私がCSKに入る前に航空宇宙の仕事をやっていた事を覚えており、 GENOAの対日輸入販売について相談を受けた。 しかしその頃私としては、自分の会社を休眠状態にしていたり、経営がうまくいっていないインターネット会社を閉鎖するという、後ろ向きの仕事をしていたので、GENOAの代理店をすぐに受ける事が出来なかった。
 
 平成13年(2001年)にはいよいよ米国政府の輸出許可が出たということで、以前私も設立にかかわった航空部品輸入企業のアンテック・インターナショナルを代理店として販売のスタートをきった。CSK時代にはNASAにも派遣された事のある折原良治、その他の技術支援を得て、先ず上層部に若干のコネがある三菱重工に売り込んだ。ASCのベンチマークテストも順調にすすみ、半年後に契約にこぎつけた。
 
 然しこれを拡販するには資金を必要とし、アンテックでは継続が難しい状況であった。そんな折に、20年来の付き合いのあった大沼徳太郎(元IBMおよびNSK役員)がIVISの石和田雄二社長に私とGENOAを紹介した。